本記事は、パーソナル・コンピュータ(Personal Computer)の成り立ちと、Windowsという巨大なプラットフォームの誕生秘話です。
日本のパーソナル・コンピュータの歴史
日本で広く使用されているパソコンは、Macintoshを除けば基本的にはどれも同じアプリケーション・ソフトウェアや周辺機器が利用可能です。
そんなのあたり前じゃないの?
ところが、ひと昔前までは決して当たり前ではなかったのです。
そこで、日本のPCを振り返る上で避けて通れない存在が日本電気(NEC)の製品群です。
PC-8801
PC-8001は、国内で初めて「ベストセラー」と呼べるパソコンとなりましたが、それを受け継いだPC-8801シリーズによって初めてソフトウェアの流通基盤が築かれたのです。
以前は、ソフトウェアは自分で作るもの。作らないまでも雑誌などに掲載されたソース・コードやバイナリのダンプリストを自分で入力するものでした。
PC-8801シリーズからは、ソフトウェアは「買う」ものと変化していったのです。
16bit化
パソコンが実用品となったきっかけは、プロセッサが16bitになってからと言えるでしょう。
具体的には、インテル社の「i8086」が搭載されるようになってからです。
それまでの8bitマシンでは、2byte(16bit)コードが必要な日本語処理には不十分でした。アルファベットが1byte(8bit)コードで全て表現できるのに対して、日本語処理はデータ量が膨大となるために1byte(8bit)では処理が複雑化してしまい実装するのが大変だったのです。
MS-DOSの登場
MS-DOSは、IBM PC向けにマイクロソフト(1975年にビル・ゲイツとポール・アレンによって創業)により開発されたOSです。
MS-DOSの登場により、それまではソフトウェアが変わるごとに改修する必要があったファイル・フォーマットや文字コードといったものが共通化され、パソコンを実用するための礎が築かれました。
16bitプロセッサとMS-DOSの採用により、日本のパソコン市場は大きく花開くことになります。その市場をけん引したのは、ご存知、日本電気(NEC)のPC-9801です。
伝説のPC-9801
1982年10月に発売された初代PC-9801は、日本のパソコン市場を席巻することになります。
国内シェアは一時期80%を超えました。
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PC98(キューハチ)以外のパソコンは?
PC-9801シリーズがデファクト・スタンダードとして君臨しているころ、他のメーカーはどうしていたんでしょうか?
当時のパソコンは互換性がなく、メーカーごとにアプリケーション・ソフトウェアも違うし、利用可能な周辺機器も違っていました。
PC98(キューハチ)互換機の登場
そんな中、1987年4月セイコーエプソンはPC-286でPC-9801シリーズ互換機の発売に踏み切ります。
PC-286シリーズは、PC-9801シリーズと互換性を維持しながら、高性能・低価格を売りに一定の成功を収めます。特にノートPCでは、本家NECよりも先じた製品投入により本家が後追いするということもありました。
他のメーカーは、こんな状況を決して指をくわえて見ていたわけではありません。
AX仕様の誕生
1987年10月に誕生したAX協議会が推進したAX仕様は、IBM PC/ATのアーキテクチャをベースに、日本語対応の共通アーキテクチャを目指したものです。
しかし、ハードウェア・アーキテクチャの魅力が乏しかったことや割と高額だったこともあり、日の目を見ることはありませんでした。
ほとんどのユーザにとって、PC98(キューハチ)からわざわざAXパソコンに乗り換えるメリットはなかったのです。
但し、マイクロソフトの旗振りで、華々しくスタートした割には大きな成功を収めることなく終わったAXでしたが、次のDOS/Vが成功する下地を作ったことには間違いありません。
DOS/V登場で流れが変わる
PC98(キューハチ)の独走状態を大きく変えると同時に、日本のパソコン市場に決定的なインパクトを与えたのが、1989年末に日本IBMがリリースした通称DOS/Vと、DOS/V上で動作する日本語版Windows 3.0です。
DOS/Vが画期的だったのは、すべての日本語処理をソフトウェアのみで実現したことです。また、日本IBMがDOS/Vを標準機として自社製ハードウェア以外での利用も事実上認めたことも大きな要因でした。
つまり、パソコンの進化の足かせになっていた日本語処理というものが、DOS/Vの登場によってその壁が取り払われることになったのです。
Windows
さらに、WindowsによってPC98は急速に力を失っていくことになります。
Windows上のアプリケーションは、PC98だろうとIBM PC互換機だろうと関係なく動くのです。Windowsという新しいプラットフォームを採用することによって、周辺機器やソフトウェアは全世界共通で使用できるという大きなメリットが生まれました。
PC98の終焉
1997年9月24日、NECはそれまでのPC98シリーズとは全く互換性を持たないPC98-NXシリーズ(PC/AT互換機)を発表します。つまり、この時点でPC98は終わったのです。
この日をもって、複数のハードウェア・アーキテクチャが乱立した日本のパソコン市場は、海外と同じパソコンが支配する単一アーキテクチャの市場となりました。
なるほど。。
このように、パソコン用OSのデファクト・スタンダードとなったWindowsですが、国内ではパソコン用OSの開発は全く行われなかったのでしょうか?
答えはNO!です。
純国産OS『TRON』
同時期に純国産の「TRON」というOSが存在しており脚光を浴びていました。
組み込み用OSとしては、現在でも君臨し続けているプロジェクトですが、パソコン用のOSとしても当時から注目されていたOSなのです。
B-TRONとは?
B-TRON:パソコンOSとしてのTRON
B-TRONは、「Business TRON」の略です。
今でいうところのパソコン向けのOSで、事務処理などに使われることを想定したものです。
1985年に坂村教授と松下電器産業(現、パナソニック)の主導でB-TRONの開発がスタートしました。
先進的なOS
B-TRONは、当時としてはかなり先進的なOSでした。
例えば、当時のOSの多くが文字でコマンドを入力する方式でした。
それに対して、B-TRONはマウスを使ってアイコンをクリックしソフトを起動する、今のパソコンと同じ方式を実現していました。
出典:RIGHTCODE > Windowsよりも先進的だった国産OS「TRON(トロン)」
その評価は非常に高いもので、実際に公的機関へ導入される予定だったのですが、、
潰されたTRON
日本国内では、小学校の教育用パソコンへTRONの導入が決まりかけていました。
アメリカからの圧力
そんな矢先、1989年にアメリカからスーパー301条に引っかかるとして圧力がかかりました。
1989年4月21にアメリカ合衆国通商代表部(USTR)が発行した、「外国貿易障壁報告書」にTRONが名指しで記載されました。
1980年代後半は、日本の経済力が急激に伸びた時期で、アメリカとの貿易摩擦問題が発生していました。
そうした時代背景での出来事でした。
TRONから手を引くメーカー
この動きにトロン協会は、USTRに対して文書による抗議を行いました。
その結果、1年ほどしてTRONは制裁対象から外れますが、メーカー100社近くがTRONから手を引きました。
厄介なゴタゴタに関わりたくなかったということでしょう。
結局、実際に学校教育で導入されたのは、PC-9801をはじめとするMS-DOS搭載のパソコンで、TRONは排除されてしまいました。
出典:RIGHTCODE > Windowsよりも先進的だった国産OS「TRON(トロン)」
DOS/Vが発表された時期(1989年末)と重なるのは偶然?
日航ジャンボ機123便
日航ジャンボ機123便の事故:1985年8月12日
プラザ合意:1985年9月22日
123便にTRONのエンジニアが多数搭乗していたという噂(フェイク?)が広まった背景には、このような時代背景(日米貿易摩擦)も影響していたからかもしれません?