【ハチエモンが書いた勧農教訓録】牢内でも基本的人権が保障されていた江戸時代

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今回は、林八右衛門(ハチエモン)という人が牢内で書いた『勧農教訓録』の話です。

結局は身分制を是認するように聞こえるが、真意は逆にたどらねばならない。農という家業から抜け出そうと思うな。しかし、そういう家業は政道の便宜として存在するにすぎず、人は何の家業に従おうと平等である。百姓は侍と平等とはっきり言っているのだ。つまり身分とは社会的分業にすぎず、各身分間に上下はなく平等なのだ。お上を恐れることは何もないのである露骨にそう言っている。

引用元:小さきものの近代 渡辺京二著

ここにも意外な徳川時代がありました。

本記事は小さきものの近代(著 渡辺京二)』から抜粋して構成したものです。本記事を読むことで、「牢内でも基本的人権は保障されていた」という意外な徳川時代が垣間見えてきます。

東善養寺(ひがしぜんようじ)村

八右衛門は、上野国(群馬県)那波郡川越藩前橋分領東善養寺村の百姓でした。

現在の群馬県前橋市東善町です。

八右衛門は、二十五歳の若さで東善養寺村の名主になったとあります。

四十二歳のとき破産して江戸に働きに出ていたこともあるようですが、五十三歳で名主に復帰しています。

引石(ヒキコク)廃止

ことの発端は、文政四年(1821年)の天候不順による不作と、養蚕に必要な桑もやられた中、藩庁から年貢増微の達しが出たことによるものでした。

東善養寺村の年貢は三四八石、それから九七石を「引石(ヒキコク)」した二五一石が近年の負担でしたが、なんと、それを「引石(ヒキコク)」廃止の上、検見を行い「六公四民にするとお達しが来ます。

この決定に村中騒然となり、名主の八右衛門のもとに訴えが殺到したのです。

永牢

永牢(ながろう)とは、今の終身刑にあたります。

引石(ヒキコク)」廃止に対して村々が騒ぎ立て、江戸の川越藩邸に出訴する運びとなったのですが、この件に対する藩庁の取り調べ結果が奇怪でした。

文政五年一月に入牢させられたのは十数名でしたが、八右衛門だけが永牢を申し渡されたのです。

勧農教訓録

どうやら、藩庁側では誰か頭取を指名する必要があり、無理を承知で八右衛門に罪をかぶせたらしいとのこと。

八右衛門が前橋の陣屋に願書を提出したのが騒ぎの元だというのだから非常に無法な話ではあります。

座敷牢

子孫に伝わる話では、永牢といっても「座敷牢」のようなもので、筆墨も入手できたそうです。さすがに藩庁も手心を加えてくれたのでしょう。

百姓はいかに生きるべきか

この牢内で書いた「勧農教訓録」こそ問題の書なのです。

処刑の不当をなじる文言もありますが、本旨は「百姓はいかに生きるべきか」と、子孫に説くことにありました。

士農工商

士農工商の家業を守り、生得の家業を替わってはならぬ、と結語します。

身分制度を是認するように聞こえますが、真意は逆にあると言います。

農という家業から抜け出そうと思うな。しかし、そういう家業は政道の便宜として存在するにすぎず、人は何の家業に従おうと平等である。

百姓は侍と平等だと、はっきり言ってます。

つまり、身分とは社会的分業にすぎず、各身分間に上下はなく平等である。お上を恐れることは何もないのである、と。

農民はもっとも自由である

武士は器量身持ちも難しく、謹んでいても不首尾のことあって人に辱められたりする。

商工は人が品物を用いてくれねば渡世ができず、他人に手をつかねばならない。

僧、神職、医師も同様である。

そもそも百姓の家業をつらつら案ずるに、農家ほどこの土に安楽の者はあるまじ

百姓は貧乏さえ防ぎたらば一存にて何事も自由成るべし、云う中にも平百姓が然るべし

我が田畑に入りて渡世すれば困ることはあるまじく、ただ我が家に居りて云いたいままの事を云いてすむ者は百姓ばかりなり

これはなるだけお上との接触を断って、村共同体の中での平等な暮らしを楽しもうとするもので、権力から逃亡する自由、あるいは権力を疎外する自由と言ってよい、と筆者は言うのです。

まとめ

ハチエモン一人が永牢を申し渡されたという、その無法な話の事情は明白ではないですが、藩庁が手心を加えてくれたエピソードや、百姓は侍と平等だと書いた「勧農教訓録」を牢内で書き上げたという話には驚きます。

このように牢内という閉ざされた空間でも基本的人権は保障されていた。

それが、ニッポン人が知らない徳川時代なんだと思います。

まことちゃん
まことちゃん

最後まで読んで頂き、ありがとうございます!

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