先日、人吉市にて、「人吉城地下室遺構の謎に迫る!」というシンポジウムがありました。
宗教学を中心にした専門家の話は、結論にまで至らない「煮え切らない」印象しか持てない内容でしたが、個人的には、逆に「謎はますます深まるばかり」で、面白かったですねぇ
ぶっちゃけ言うと、地域史側の思惑どおりのストーリーは描けなかったということです。
前例主義で思考するだけでは何も答えは出てこないでしょうね、、
既定の歴史は「嘘まみれ」という前提で思考しないと答えは出ないと思います。
では、ヒントになるキーワードは揃っていますので、具体的に中身を見てみましょう。
地下室を発見
ことの発端は25年前(1997年)に遡ります。
発掘調査
国指定史跡の人吉城跡を整備するため、85年度に始まった発掘調査がきっかけです。
その発掘調査で見つかった地下室は、人吉・球磨地域を約700年にわたって治めた相良(さがら)家の家老職、相良清兵衛(1568~1655)の屋敷跡でした。
南北8.5メートル、東西9メートル、高さ3メートル以上の大規模なもので、石積みの壁に囲まれています。
このような地下室遺構は、国内では、他では見つかっていません。
ミクヴェと酷似
見てのとおり、スペイン・ジローナで発見されたユダヤ教ミクヴェと酷似しており、ミクヴェの条件である「流水」、「冷水」、「全身沐浴に十分な水量」の3条件は一応満たしています。
用途がよくわからない謎の地下室だ!
隠れキリシタンの遺構ではないか!との声が郷土史家から寄せられました。
相良清兵衛という人物
独裁的存在
相良清兵衛は、安土桃山・江戸初期の肥後人吉藩の重臣でした。名は頼兄(よりもり)、本姓は犬童(いんどう)といいます。
父は頼安といい、犬童氏は相良家譜代の重臣です。文禄期に家老職につき、朝鮮の役中に反対派の家老深水氏を追放して、人吉藩では独裁的存在となりました。
岡本での隠居生活
寛永十三年(1636)、清兵衛どんは、歳も68歳になり高齢でもあることから、岡麓の城に自分の隠居所を造り始めました。
家はたんなる隠居所ではなく町屋を備えたりっぱな隠居所にしようとして、人吉からは裕福な町人を集めて移住させたそうで、それにより、人吉の町家はさびれてしまったそうです。
あさぎり町の歴史>清兵衛どんのはなし その1
人吉から裕福な町人も一緒に移住させたということは、もはや隠居じゃないですね。。
津軽藩弘前へ流罪
関ヶ原の戦いでは、東軍への寝返り策によって、相良家を安泰に導き、お家存続に多大な貢献を果たした人物と評されています。しかし、その権勢は藩主を凌駕して藩政を専断し、藩主の地位をも侵すこととなり、ついに1640年(寛永17)藩主頼寛は彼の横暴を幕府に提訴したのです。
そして、弘前藩預の身となり配所にて亡くなります。
墓が「あさぎり町岡原南岡麓の諏訪神社(岡本城跡)」にあります。
専門家の見解(シンポジウムより)
九州の仏教とキリシタン
中世(13世紀後半~16世紀)において最も勢力があったのは、奈良西大寺叡尊の法流をつぐ律宗(真言律宗、江戸時代は真言宗に吸収されることもあり)と禅宗寺院だった。
当時、キリシタンと勢力を争っており、キリシタン大名によって、肥前大村宝生寺や豊前大興善寺などの中心的律宗寺院は破却された。
叡尊教団の遺物は数多く残っており、とくに美術史(聖徳太子像、文殊像、清凉寺式釈迦像)、考古学(数多くの五輪塔などの石造遺物)で注目を集めている。
叡尊教団は、肥後にも展開しており、その中心は浄光寺(玉名)であったが、他にも八代正法寺、玉泉寺など9箇寺がある。
球磨郡には、直末寺はないが、叡尊教団の寺院が存在した可能性はある。
人吉願成寺の塔頭(たっちゅう)は、叡尊教団系の律院だった可能性が高いといえる。
律僧たちは、戒律を護持し、清貧であることを理想とする一方で、経済活動、穢れに関わる活動などにも従事した。これは、イエズス会や修道会と相似している。
それらは、前述したように、キリシタン大名が成立すると、激しく弾圧を受けることになった。
地下室遺構は、相良清兵衛と、その息子相良内蔵助の持仏堂の地下にあった。相良清兵衛がキリシタンであった確たる証拠はないが、イエズス会の巡祭使バリニアーニが、1580年4月3日に、キリスト教布教許可を求めて相良義陽に接触を試みている。という事実はある。
九州のコンベルソ
犬童家の信仰の中にユダヤ教的なものが混入した可能性
相良清兵衛が、京都から招いた「鈴木寿庵」について、『寿庵(じゅあん)』は、日本人のキリシタン洗礼名として非常に多い。「洗礼者ヨハネJoane」に因んだ洗礼名(例:後藤寿庵、町田宗加寿庵など)
近世人吉藩における本格的学問は、寛永年間(1624~1644)に当時の家老相良(さがら)清兵衛(せいべえ)頼兄(よりもり)が、自らの屋敷内に設けた学堂において、京都から招いた鈴木寿庵(じゅあん)という易学者が講義を行ったことに始まります。清兵衛の子内蔵助(くらのすけ)頼安(よりやす)はその学堂を「易堂(えきどう)」と名付けますが、寛永17年 1640の「御下おしもの乱」によって多くの貴重な書籍類とともに焼失しています。
第3次人吉市教育振興基本計画
鈴木寿庵の過去は不明。
易堂(えきどう)の北側には、「持仏堂(護摩堂とも呼ばれた)」があり、護摩壇はユダヤ教の「祭壇」に酷似している。
毛利重能がつくった割算書の冒頭部分には、『旧約聖書』「創世記」を彷彿とさせる記述があり、「易」と「カバラ(ユダヤ数秘術)」は、いずれも数字に意味を持たせるという点では共通点がある。
あらためて鈴木寿庵とは? 毛利重能同様に、16世紀中に明(マカオ)へ渡ったことがある人で、マカオでユダヤ教に入信した可能性はあるかも?
相良清兵衛・内蔵助宅にポルトガル人が寄宿していた可能性
人吉藩も近隣の細川藩、薩摩藩と同様に、「長崎買物」(長崎で商品を仕入れて京都へ送る)に従事していた。但し、関連史料が少なく、その実態はよくわかっていない。
人吉藩の「長崎買物」の総元締めは犬童家であったと考えてよさそう。
地下遺構で見つかった華南三彩トラディスカント壷(破片)は、豊後府内、堺、長崎など「南蛮貿易」に関わった都市から出土・伝世している。よって、人吉藩と「長崎買物」の関係性はかなり深いといえる。
フィリピン交易に携わった長崎のポルトガル人(マヌエル・ロドリゲス)
16世紀末には長崎に在住していて、フィリピン貿易の船を運行していたことが判明している。朱印状も交付されており、長崎平戸町の住人であるが、島原半島の口之津に船を置いていた。
南アメリカ大陸のコンベルソ・ネットワークの一端である「Manuel de la Guardia」のエージェントとして、フィリピンと日本の貿易を行った。このネットワークの中に、ルイス・デ・カルバハル(Luis de Carvajal)という人物がおり、スペイン人でメキシコの銀山町タスコの行政長官であった。
ルイス・デ・カルバハルは、「コンベルソ」であるが、妻が熱心なユダヤ教徒であったことが知られ、「ユダヤ教を実践している」と訴えられて異端審問にかけられている。
メキシコで唯一の地下ミクヴェが、タスコ(Tasco)で見つかっている。(2020年に発表)
水槽の大きさ直径2.5m、深さ2m、地下室の大きさ直径6.5m×7.11m、高さ4.43m₊1.25mの階段
メキシコで唯一見つかっている地下ミクヴェの関係者が長崎に在住していたのは確実である。(史料からいえること)したがって、この繋がりから銀山技術者を招聘したのかも?
タスコは、銀山町(銀の採掘、精錬技術の見学に仙台藩の支倉常長らも立ち寄る。家康も銀鉱山技術師の派遣をメキシコに要請している)である。
時期的には、寛永初期であり、易堂や護摩堂の建設時期と重なる。
あさぎり町の宮原銀山と関連あるかも? 近くには「妙見野」という妙見信仰を連想させる地名があり、さらに人吉藩家老井口石見が隠居をしていた場所中山観音堂がある。
犬童頼兄の家族にユダヤ教の生活習慣を持つ人間がいた可能性
ミクヴェを使うのは基本的に女性であるため、屋敷の地下にわざわざ造ることを考えると、犬童家の女性のためのものと考えるのが常識的か?
犬童家に嫁した島津家の姫(妙桂尼)がいるが、島津家の史料では、ほとんど記録がなく、生年等も不明である。
ミクヴェについて
人吉地下室遺構が、ユダヤ教ミクヴェ(スペイン・ジローナ)と酷似している。
ミクヴェとは? ヘブライ語で「水を集めたもの」の意。
ユダヤ教で穢れを清める儀礼用の水槽のこと。
ミクヴェの要件は?
流水
満たしている。
冷水
満たしている。
全身沐浴に十分な水量
満たしている。
設備としては、ミクヴェとしての条件を満たしている。つまり、ミクヴェとして使える。
まとめ
地下室遺構は、ユダヤ教のミクヴェとしての条件は、ほぼ満たしている、ということでした。だからといって断言はできないと思いますが。
肝心のユダヤとの繋がりですが、銀採掘のために、スペイン人の銀山技術者を、長崎経由で、タスコから招聘していたと考えるのが自然な気がしましたけどね。シンポジウムではそこまで踏み込んではいませんでしたが、、
岡本での隠居生活。そして、4年後に津軽へ流罪ですよ。胡散臭いですね~ww
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あさぎり町の宮原銀山に関する参考文献:
16世紀中頃の相良氏関係史料に登場。現在銀鉱脈が確認できないことから、アンチモン(銀白色)を銀と誤認した可能性が指摘された。
引用元:原田史教「天文年間における相良氏の銀山開発の実装について」『日本歴史』519号、1991
近年、鹿毛敏夫氏は相良氏独自の渡唐船の建造や日明貿易は資本となる銀なくしては考えられないものとして、地質学、銀精錬の技術からも、銀含有のアンチモン(輝安銀鉱)が宮原銀山に存在したが、16世紀中には枯渇した可能性を指摘している。
引用元:鹿毛敏夫『戦国大名の海外交易』勉誠出版、2019、39~40項)