「大原幽学」のことを調べてみると、このように書かれています。
『江戸時代後期の農政学者、農民指導者。天保9年(1838年)に組織した「先祖株組合」は世界初の農業協同組合とされる。』
この大原幽学と同時期には二宮金次郎(尊徳)がいます。
二宮金次郎は、後の「報徳社」の精神となる「五常講」(仁義礼智信)を元にした生活を助けるために資金を貸し借りする制度を打ち出しますが、世界で最初の信用組合はどちらとも最初と言われており世界では同等の扱いとなっています。
でも、二宮金次郎は小学校から習いますが、大原幽学のことはほとんど知られていません。
江戸に出ても手がかりはなく、房州に渡ってパトロンが出来たが、それでも落ち着けず、しきりに下総東部を往来した。下総には享保年間から山崎闇斎(あんさい)の学統があったし、文化文政には平田篤胤(あつたね)が、文政から天保初年にはその子鉄胤が来て、海上・香取郡には百人に及ぶ門弟がいた。
そこで道を説こうとしても、幽学は学者ではなく、和歌・俳諧を作るといっても、土地の旦那衆とやりとりする程度で、その道で先生面は出来ない。後年、当時の自分を「馬鹿先生」と自嘲する。闇斎派篤胤派の地方文人たちから、そう見えただろうというのだ。
引用元:小さきものの近代 渡辺京二著
このくだりだけでも「大原幽学」という人に興味が湧いてきませんか?😍
幽学の「生い立ち」
弟子の間に伝えられたところでは、大原幽学は尾張藩家老大道寺氏の次男として生まれました。
18歳のとき決闘で人を殺めて勘当されたそうです。
弟子たちは彼の墓を大道寺家の墓地に建てたそうですが、家譜を精査しても幽学の存在を証しするものは無かったといいます。
幽学は己の出自については一切語らなかった。。
しかし、相当の格式を持った武家であったようです。著作においても人の理想を武士に求めており、自決したときに残した両刀と三両は、勘当の際に父から与えられたものでした。
放浪癖
香取郡長部村に落ち着くまで放浪は続きました。
香取郡長部村は、現在の千葉県旭市長部です。
落ち着くまでの放浪先
- 勘当されたあと九条家の家臣田島主膳のもとに二年ばかり寄食
- 大坂の商人の保護を受けた
- 高野山に上って仏道修行
- 四国・中国への旅
- 近江国伊吹山の松尾寺に入り提宗和尚に学ぶ
義論集
幽学の弟子たちの訓育の特徴は、大幅に討論を取り入れたことでした。
その記録『義論集』の冒頭を見ると、長沼村本多元俊(医師)が「我天下に敵無きことを願ふ。然れども今十人にして凡六、七人の外は和し難し」と言うと、幽学が「小きかな、天下に敵無き事を願ふ者、何ぞかの人この人と数ふるや」と答えるといった風である。テーマを出して、出席者に考えを書かせることもあった。熱気の織る討論であり、このような共同学習こそ入門者にとって何にも替え難い魅力であったろう。
引用元:小さきものの近代 渡辺京二著
幽学の伝道は言葉の上のことではなく、彼は理想的なムラを作るべく具体的な事業に着手したのです。
先祖株組合の設立
大原幽学が第一に行ったのは、「先祖株組合」の設立です。
その内容は、
- 加入者が五両に相当する耕地を提供する
- 耕地が生む利益を無期限に積み立てる
その目的は、「親先祖を楽しましむるため」というものです。
先祖株組合は、協同組合の原型ともいわれています。
この先祖株組合とは、村民が所有地(およそ1反の土地)を提供して、その所有地から得た収益を困窮者を助けたり、土地改良や農地開拓を行う種銭にするという、いわゆる互助組織です。
時代は、天保の大飢饉(1833年~1839年頃)の真最中。
飢饉などで農民が苦しい生活をしていたため、みんなで共有財産を作って積み立てを行い、不測の事態に備えておきたいという趣旨で設立したと思われます。
農事を指導
幽学は農事も指導しました。
その反面、すぐ近くに干鰯の産地九十九里浜があるのに金肥を使うことは好みませんでした。
桑などの商用作物も禁じたそうです。
幽学が目指したものは、こういう商業の浸食力に抗する自給農村でした。
まとめ
最後に、農林水産省の公式サイトにある大原幽学に関する記事を紹介します。
しかし、1851年建設の、改心楼(性学の教導所)を中心とした教化活動に心良く思わなかった当時の関東取締出役は、性学指導を弾圧するようになり、遂には勘定奉行の取り調べを受けました。そして先祖株組合の解散と改心楼の取り壊しを命ぜられた幽学は、愛弟子に最後の教えを説いた後、切腹して最期(享年62才)を遂げたのです。
農林水産省 教学の実践につとめた農民指導者 大原幽学
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