【三島由紀夫と蓮田善明】二人に共通した「日本の知識人に対する怒り」とは?

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三島由紀夫は、「蓮田善明」について『氏が何に対してあんなに怒っていたかがわかってきた。あれは日本の知識人に対する怒りだった。』と言っています。

そこから半世紀以上が経ちますが、何も変わっていないどころか、さらに悪化しているようにさえ見えるのは私だけでしょうか?

「蓮田善明」を検索すると、壮絶な人生を送られた方であったことを知ることができます。

陸軍中尉でもあった蓮田は、太平洋戦争時の出征地・イギリス領マラヤのジョホールバルにおいて、敗戦直後の連隊長の変節ぶりに憤り、隊長を射殺。その直後自身も同じ拳銃で自決した。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

自決といえば、近代では「三島由紀夫」の割腹自殺があまりに有名ですが、実は、「三島由紀夫」と「蓮田善明」には深い縁があったことはご存知でしょうか?

『蓮田善明とその死小高根二郎著)が刊行された際には、三島は序文に以下のように書いています。

私はまづ氏が何に対してあんなに怒つてゐたかがわかつてきた。あれは日本の知識人に対する怒りだつた。最大の「内部の敵」に対する怒りだつた。戦時中も現在も日本近代知識人の性格がほとんど不変なのは愕くべきことであり、その怯懦、その冷笑、その客観主義、その根なし草的な共通心情、その不誠実、その事大主義、その抵抗の身ぶり、その独善、その非行動性、その多弁、その食言、……

— 三島由紀夫「序」(小高根二郎著『蓮田善明とその死』)

では、この二人に共通した”怒り”というものに、どのような背景があったのかを見ていきます。

出生の地

蓮田善明は、1904年(明治37年)7月28日、熊本県鹿本郡植木町(現:熊本市北区)の浄土真宗大谷派本願寺末寺の金蓮寺住職の父・蓮田慈善と、母・フジの三男として生まれます。

蓮田善明先生文学碑

植木町には、西南戦争最大の激戦地・田原坂がありますが、ここには、「蓮田善明先生文学碑」があり、石碑の裏側には旧友からの贈る言葉が刻まれています。

鐙田杵築神社

植木町鐙田には、鐙田杵築神社があります。この鐙田杵築神社と新開大神宮を尊崇していた林桜園は、熊本神風連の師でしたが、蓮田善明は鐙田杵築神社の宮司の息子と親友同士だったようです。

評論家
評論家

神風連は、三島由紀夫の長編大作「豊穣の海 第2巻奔馬」で登場しますが、なにか運命的なものを感じますね。。

神風連の乱
豊穣の海 第2巻 奔馬

文藝文化

国文学への目覚め

熊本県立中学済々黌(現・熊本県立済々黌高等学校)卒業後、広島高等師範学校(現・広島大学教育学部の母体)入学した蓮田は、国文学の教授・斎藤清衛博士から強い影響を受け、古典精神へ傾倒していくことになります

また、同校の学芸部の校友会誌『曠野』の代表委員をしていた4年の時に、2年の清水文雄(年齢は清水が最年長)と、1年の栗山理一池田勉と出会いました。

『文藝文化』創刊

蓮田善明は、1938年(昭和13年)4月、清水文雄、栗山理一、池田勉と共に、「自ら神となって文学を新しくする日本に」という日本学の樹立のために「日本文学の会」を結成します。

また、同年7月に、蓮田を編集兼名義人として同会の国文学月刊誌『文藝文化』を創刊し、7月28日から4日間、高野山において「日本文学講筵」を開催しました。

高野山 奥の院

三島由紀夫との出逢い

花ざかりの森

昭和16年4月、中等科5年に進級した三島由紀夫(16歳)は、同年7月に「花ざかりの森」を書き上げて、国語教師の清水文雄に原稿を郵送して批評を依頼します。

このとき、清水文雄は、私の内にそれまで眠っていたものが、はげしく呼びさまされるような感銘を受けたと言っています。

また、清水自身が所属する日本浪曼派系国文学雑誌『文藝文化』の同人たち(蓮田善明、池田勉、栗山理一)にも読んでもらい、皆で「天才」が現われたことを祝福し合って同誌掲載を即決したのです。

評論家
評論家

清水文雄は、三島由紀夫(ペンネーム)の名付け親です。蓮田と同じ熊本出身ですよ。

この「花ざかりの森」を読むことで、『文藝文化』創刊者だった蓮田善明は三島由紀夫を知ることになります。

以下は、「花ざかりの森」あらすじの一部です。

「わたし」は自身の生まれた家を追想する。祖母、母、父、そして、憧れである祖先たちから自分へと川のように続く「一つの黙契」に思いを馳せる。川はどこの部分が川というのではなく、流れていることに川の永遠の意味があり、憧れはあるところで潜み、隠れているが死んでいるのではなかった。祖母と母においては、川は地下を流れ、父においては、せせらぎになった。「わたし」において、それが「滔々とした大川にならないで何になろう、綾織るもののように、神の祝唄(ほぎうた)のように」と「わたし」は考える。

花ざかりの森あらすじ一部引用
評論家
評論家

16歳で書いたということにも驚きますが、「ニッポン」精神の描写力に感嘆しますね。

文壇デビュー

「花ざかりの森」は、『文藝文化』昭和16年9月号から12月号に連載されました。

第1回目の編集後記で蓮田善明は、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と激賞するのです。

神風連のこころ

三島由紀夫は、保田與重郎蓮田善明伊東静雄ら日本浪曼派の影響下で、詩や小説、随筆を『文藝文化』に発表していきます。

特に蓮田善明が説く、「皇国思想」「やまとごころ」「みやび」の心に感銘するのです。

昭和17年11月号に、蓮田善明は「神風連のこころ」と題した一文を掲載しましたが、これは蓮田にとって熊本済々黌の数年先輩にあたる森本忠が著した『神風連のこころ』(國民評論社)の書評でした。

この「神風連のこころ」や、森本忠の著書を読んでいた三島由紀夫は、後年の1966年(昭和41年)8月に神風連の地・熊本を訪れて、森本忠(熊本商科大学教授)と面会することになるのです。

南方戦線へ出征

蓮田善明は、1943年(昭和18年)10月25日、第二次召集が決まり、歩兵第123連隊の小隊長として11月に南方戦線へ出征することになります。

送別会

召集日の夜、『文藝文化』同人らにより送別会が開かれました。

このとき蓮田は、三島由紀夫に、「日本のあとのことをおまえに託した」と言い遺します。

栗山理一は、その夜、蓮田が、「あのアメリカの奴め等が…」と何度も激昂を繰り返し、神風連の歌を吟じては憤り、熱涙を流していたと回想しています。

『をらびうた』

蓮田は、インドネシアのジャワ島のスラバヤにて、佐藤春夫と巡り合い、一冊にした陣中日記(「をらびうた」)を託しました。

また、蓮田はこの頃スンバ島から、小学校2年の二男・太二と、3歳下の三男・新夫宛てに遺書のような便りを送っています。

新夫君はあひかはらずわるん坊でせうね。兄さんと三人で心をあはせてお母さんを守つて、お父さんがゐなくてもりつぱな人になりなさい。兄弟三人で心と力を合せたらほんとうに強くなれます。四十七士もうち入りの時は三人ぐみになつてたゝかつたさうですよ。お父さんは元気です。家のまはりの林にはお猿さんが一杯ゐます。豚さんも時々歩いてゐます。一メートルばかりの大とかげも。太二君の好きな河馬さんはゐません。さやうなら。

蓮田善明「太二・新夫宛ての葉書」(昭和19年8月26日付)

敗戦

1945年(昭和20年)8月15日、日本軍の降伏により終戦となります。

上官の豹変

しかし、不敗を誇る士気旺盛な熊本歩兵部隊は、天皇に戦争責任が負わされる場合を危惧し、軍独自の行動として、最後の一兵まで抗戦すべしと意気に燃えていました。

そんな中、青年将校らの計画は、極秘に鳥越大尉により抵抗部隊が編成されつつあり、蓮田善明もその抵抗部隊の大隊長に擬せられていたのです。

この不穏な動きを察知した中条豊馬大佐は、抵抗部隊編成を制するため、下士官以上を本部の奥にある山上の新王宮に集め、8月18日に軍旗告別式を決行して訓示をします。

鳥越大尉の記憶によると、このとき、「敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた」といいます。

中条豊馬大佐の軍人らしからぬ、あまりの豹変と変節ぶりに多くの青年将校は憤ります。

中でも蓮田中尉の激昂は凄まじく、その集会の直後にくずれて膝を床につき、両腕で大隊長・秋岡隆穂大尉の足を抱いて、「大尉殿!無念であります」と号泣したといいます。

決意

中条豊馬隊長の訓示を聞いた8月18日、蓮田は中条を斃して(倒して)、自らも「護国の鬼」となって死ぬことを決意します。

以下は、鳥越大尉の副官室で、4名の幹部士官と昼食会になったときのエピソードです。

高木大尉が中条連隊長の肩を持ち、これからの日本で誰が一番偉いか子供に聞けば、ルーズベルト蔣介石の名を出ると言い、天皇と答える者はいなくなると投げやりな態度をとりました。

これに対して、蓮田は、「そんな莫迦なことは断じてない。日本が続くかぎり、日本民族が存続するかぎり、天皇が最高であり、誰が教えなくとも、日本の子供であるかぎり、天皇を至尊と讃える」と激しく反論するのです。

「冗談じゃねえ。はたして生きて帰れるか、どうか、わからん我々なんだぜ。連隊長殿(中条豊馬)の話のとおり、くだらん理屈をこいて暇をつぶすより、どうしたら生きて帰れるかちゅう手段を、真剣に考える秋じゃあるまいか?」と、高木大尉はたたみかけた。

生きて帰ろうと、死んで帰ろうと、我々は日本精神だけは断じて忘れてはならん!と善明は声を荒らげた。

— 小高根二郎「蓮田善明とその死」
評論家
評論家

ここで、三島由紀夫の長編大作「豊穣の海 第2巻奔馬」における「純粋」というものを連想させますね。

射殺、そして自決

その日、中条豊馬大佐は、軍旗を納めた箱を持った塚本少尉を従えながら、連隊本部の玄関を出ました。

そして、中条豊馬大佐が、待機していた車に乗り込もうとすると、副官室の窓外の死角で待ち伏せていた蓮田が、黒田軍曹の背後から踊り出て、「国賊!」と叫び、拳銃を2弾連発して中条豊馬を射殺します。

蓮田はその後、こめかみに拳銃を当て自決しました。

このとき、最初に引き金を引いたときは不発で、自殺を止める時間はあったようですが、黒田軍曹はあえてそれをしませんでした。

蓮田善明と三島由紀夫

1966年(昭和41年)6月、三島は長編大作の第二巻となる連載「奔馬」の取材を始めます。

神風連ゆかりの地へ

取材のため熊本に到着した三島は、荒木精之らに迎えられて蓮田善明未亡人と、森本忠(蓮田の先輩)と面会し、神風連のゆかりの地(新開大神宮桜山神社など)を取材して、10万円の日本刀を購入します。

この旅の前、三島は清水文雄宛てに「天皇の神聖は、伊藤博文憲法にはじまるといふ亀井勝一郎説を、山本健吉氏まで信じてゐるのは情けないことです。それで一そう神風連に興味を持ちました。神風連には、一番本質的な何かがある、と予感してゐます」と綴っています。

蓮田善明とその死

冒頭でも少し触れましたが、小高根二郎『蓮田善明とその死』が刊行される際には、序文に、蓮田善明の「怒り」の本質について以下のように考察しています。

私はまづ氏が何に対してあんなに怒つてゐたかがわかつてきた。あれは日本の知識人に対する怒りだつた。最大の「内部の敵」に対する怒りだつた。戦時中も現在も日本近代知識人の性格がほとんど不変なのは愕くべきことであり、その怯懦、その冷笑、その客観主義、その根なし草的な共通心情、その不誠実、その事大主義、その抵抗の身ぶり、その独善、その非行動性、その多弁、その食言、……それらが戦時における偽善に修飾されたとき、どのような腐敗を放ち、どのように文化の本質を毒したか、蓮田氏はつぶさに見て、自分の少年のやうな非妥協のやさしさがとらへた文化のために、憤りにかられてゐたのである。

— 三島由紀夫「序」(小高根二郎著『蓮田善明とその死』)
評論家
評論家

この問題は、現代でもまったく同じですね。というより、益々酷くなっている。。

まとめ

どうでしたか? 

まことちゃん
まことちゃん

『蓮田善明とその死』の序文にある、三島の考察に共感しませんか?

ご存知のとおり、蓮田善明の故郷の地である田原坂は、西郷隆盛率いる薩軍と、官軍が激戦を繰り広げた場所でもあります。

以下は、本ブログを綴るにあたり、再訪問したときの写真です。

さて、これまで行方が分からなかった、三島直筆「花ざかりの森」の元原稿が2016年(平成28年)9月、熊本市の蓮田家(蓮田善明の長男・晶一の家)から発見されています。

このことからも、三島由紀夫と蓮田善明の深い関係性が見てとれますね。

最後に、冒頭に載せた、田原坂にある「蓮田善明先生文学碑」の最期には、以下のように締めくくられています。

君は性来篤実にして真摯特に近親知友に対する愛情濃まやかで寸刻を惜しんで学究に精励した。その性の清潔と学風の高邁さはまさに秀達の一語に尽きよう 今はその短命を惜しむと共に永く祖国の上に君の冥護あらんことを祈り旧友相はかってこの碑を建てる

斎藤清衛 昭和三十五年八月

書籍の紹介

三島由紀夫の精神的な「父」。敗戦時、隊長を撃ち拳銃自決した「ますらをぶり」の文人。初の本格蓮田善明論!

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