徳川時代、山岳を信仰の対象にし、講を設けて集団登山する習わしがありました。
富士講の活動は、定期的に行われる「オガミ(拝み)」とよばれる行事と富士登山(富士詣)から成っている。オガミにおいて、彼らは勤行教典「オツタエ(お伝え)」を読み、「オガミダンス(拝み箪笥)」とよばれる組み立て式の祭壇を用いて「オタキアゲ(お焚き上げ)」をする。
また信仰の拠りどころとして石や土を盛って富士山の神を祀った富士塚(自然の山を代用することもある)を築いた例もある(詳細は富士塚の記事を参照)。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
また、あるサイトにはこのように説明されています。
◆江戸時代の「講」には、「伊勢講」「富士講」に代表される信仰に基づくものと、「頼母子講」「無尽講」に代表される経済的相互扶助を目指すものの二種類があった。どちらも、「講」のメンバーが定期的にお金を積み立て、そのお金で前者の場合には何人かずつを「講」の代表として伊勢詣・富士詣に送り出そうとするものであり、また後者の場合には籤引きなどに当たった人がまとまったお金を優先的に利用できるシステムであった。伊勢詣も富士詣も日本の信仰の旅は同時に「物見遊山」の旅でもあった。「連れ立ってあちこちの名所旧跡を訪ね、知的好奇心を満足させようとする」旅でもあった。
出典:NPO江戸連
物見遊山とは?
「物見遊山」(読み方:ものみゆさん)とは見物して遊び歩くことです。
「物見遊山」は語源があるわけではなく、単純に「物見」と「遊山」という2つの言葉が組み合わさってできた言葉です。
「物見遊山」の旅が庶民に広がり、一般的になったのは江戸時代とされています。
その代表的なものがお伊勢参りです。庶民はお伊勢参りという大義名分を得、その後京都や大阪に遊びに行くようになりました。宗教的な目的の中に娯楽を織り交ぜながら旅を楽しむようになったのです。
江戸時代にそれまでは信仰の旅が主流であった庶民のあいだに「物見遊山」の旅が広がっていきました。
その「伊勢詣」とあわせて、江戸を中心に広まったのが「富士詣」です。
本記事は、「富士講」の元祖と言われる「藤原角行」さんの話から始まります。
藤原角行(かくぎょう)
天文10年(1541年)長崎に生まれ、18歳で「諸国霊場巡拝の旅」に出て、冨士山の人穴に籠もって苦行の末、仙元大菩薩より「角行(かくぎょう)」の名を授かったとあります。
村上光清派と食行身禄派
その後、角行の道統は、光清派と食行身禄派に分かれました。
光清は「大名光清」と呼ばれる富豪で、「冨士山吉田口浅間神社」を独力で修理したことで有名です。
一方、「乞食身禄」と呼ばれた伊藤伊兵衛は、寛文11年(1671年)、伊勢国一志郡美杉村川上の農家に生まれました。今の三重県津市です。
「食行身禄(じきぎょう みろく)」は、生涯の登頂四十五度を数えたそうです。
「食行」とは、「断食行」のことであり、「身禄」とは「弥勒仏」を踏まえたものとされています。
修身に努め思想を説く
入信してからは財産を放棄
「乞食身禄」と呼ばれた伊藤伊兵衛は、身なりがあまりに粗末なので借金でも申し込まれるのではと、人びとが敬遠したそうです。
どうやら、「むずかしい人」だったようですね。
でも、その独自の思想は、林八衛門や三浦命助のように百姓一揆を先導した人々の考えを先取りしていたと言えます。
身禄は富士業者の呪術的行為を否定し、お礼の類も出さず、専ら修身に努め、独自の思想を説いた。その根本は「人間の貫き事、能く取り行えば神にも仏にもなるべし。人間依て我が体、人の体と隔てなく、一仏一体也」というにあり、「人間一人相続したらんには、堂塔伽藍したらんよりはるかに勝れたる大善なり」と言い切った。
出典:「小さきものの近代」 第三章「自覚の底流」修身に努め思想を説く
林八衛門(ハチエモン)については、以前に記事で取り上げましたのでご参考に!
女人の富士登山も認めた
身禄は、従来禁制だった女人の富士登山も認めました。
仏法に女は罪業深しと言うが、「女とても悪になるまじき事は、悪になるべきいわれなし。女よくつとむるは善なり、男悪をなせば悪なり」とし、仙元大菩薩は女体であるから特に女人を救うのを本願をなすと言い、経血を不浄とするのは甚だ似て誤りで、人を生むため天より授けたのだから「花水」と呼ぶべきだと主張した。
出典:「小さきものの近代」 第三章「自覚の底流」修身に努め思想を説く
冨士山で入定
身禄は、かねがね「冨士山で入定する」と弟子に語っており、享保18年6月17日を命日と期して入山しました。
6月15日、身禄は、冨士山七合五勺のところにある烏帽子岩に厨子を設けて入り食を断ちました。
入寂は、7月17日、63歳だったと言います。
入寂に立ち会った田辺十郎左衛門が一年経って入山してみると腐敗は無くミイラ化していたそうです。
富士講の成立
富士講
富士講が成立したのは、身禄の三十三回忌があったあたりからとのことです。
富士講とは?
- 集団登山のための講である
- 三年、五年を一期として請金を積み立てる
- 年々講員の一部が登山する
- 一期で全員登山が完了する
という仕組みで運用されました。
文化文政時代が最盛期であり、明治維新を経て、教部省の「富士一山講社」となり、さらには「扶桑教(ふそうきょう)」、「実行教」、「丸山経」と分派していきました。
富士塚
関東各地では、富士塚が設けられたのも目覚ましい現象でした。
最初に築造したのは、身禄の弟子である「高田藤四郎」であり、身禄の三十三回忌を機に戸塚村(今の新宿区高田馬場)に建立したのが始まりです。
上記サイトには、このように「高田冨士」が紹介されています。
高田藤四郎は、江戸に「身禄同行」という講を組織していますが、これが後に大ブームとなる富士講のルーツです。
「富士塚(高田富士)に登拝すれば、富士山の登ったのと同じ御利益がある」と喧伝(けんでん)され、江戸時代には6月15日〜18日の間に参詣が許されていました。現在も高田富士は伝統を受け継ぎ、毎年、海の日(7月第3月曜)とその前日の日曜の2日間だけ登拝が許されています。
江戸時代には、品川富士、千駄ヶ谷富士、下谷坂本富士、江古田富士、十条富士、音羽富士、高松富士の7ヶ所の富士塚をめぐる「江戸七富士参り」も人気でしたが今もこの江戸七富士は現存しています。
出典:東京トリップ > 高田冨士
明治時代にはこの江戸七富士に、高田富士を加えて江戸八富士と呼ばれていました。
これ以降、冨士塚は各地に続々と建てられ、その数は60に及び、1983年の時点で43が現存していたと言います。
まとめ
このように、徳川時代までは「修身に努めて思想を説く」という人が溢れるように存在していたようです。
日本のランドマークでもある「富士山」に登るのもいいですが、ときには修身に努めて「江戸七富士」に登るのもいいかもしれません。
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最後まで読んで頂き、ありがとうございます!