離縁状は、江戸時代、庶民が離婚する際に夫から妻、またはその父兄に渡す書付のことです。
今回は、その離縁状を「妻りん」に渡した上で、一揆に合力した「兵助」という人物の話です。
そしていつのことか、上総の木更津に住みついた。瞠目すべきはそれからである。三年ほどして犬目宿に現れ、妻りん、娘たきを木更津に連れ帰った。木更津では寺子屋の師匠をしていたという。
引用元:小さきものの近代 渡辺京二著
離縁状まで渡して一揆に参加した「兵助」が、どのような人生を送ったのか興味が湧きますね。
犬目の兵助(いぬめのひょうすけ)
甲斐国都留郡犬目村は甲州街道の宿場町で、兵助は水田屋という家に生まれました。
現在の山梨県上野原市です。
宿場町の面影が残る犬目宿は、甲州街道沿いにあります。
兵助は天保三(一八三二)年に三六歳で「妻りん」と結婚します。
天保の大飢饉
天保4年に始まった「天保の大飢饉」によって、郡内でも米価が急騰しました。
そのことで米を買いだめしている酒屋・米屋に対する「打ち壊し」が始まります。
このときの一揆で頭取を務めたのが、下和田村の「武七」と「兵助」であったとされています。
男伊達「武七」
下和田村は犬目村に隣接する村ですが、「武七」は平生公事訴訟を好む「男伊達」だったようです。
平生公事訴訟(くじそしょう)を好ミ、或ハ無宿風来の長脇差などを手馴付(てなれつけ)、仲間の中にてハ親方と称し、何の家職も務(つとめ)ず、其日(その)暮らしの曲者(くせもの)なり
引用元:『応思穀恩編附録』
わかりやすく書くとこんな感じです。
訴訟に関する知識があり、弁も立つので村人たちからは頼りにされていたんでしょうね
離縁状を渡した「兵助」
兵助は武七と親しかったようで、武七に頼まれて一揆に合力しました。
その覚悟の程は、「妻りん」に離縁状を渡したことでもわかります。
もちろん、その行動は連座を防ぐためのものでした。
騒乱
打ち壊しは、武七や兵助の思惑を越えて過激化しました。
目的はあくまで豪商から米を放出させるところにありましたが、国中地方の熊野堂村に至ると、いろんな「流れ者」や「貧農」が加わったことで、世直し一揆的な騒乱になったのです。
武七や兵助の郡内勢は引き上げて帰村しましたが、村々にはすでに役人が出廻っており、七〇歳の武七は、罪は自分が引き受けると言って「兵助」を逃亡させました。
裁決
「武七」と「兵助」に出された刑は、ともに「磔刑(たっけい)」でした。
が、しかし、「武七」はすでに牢死しており、「兵助」は行方不明です。
芸が身を助けた逃亡劇
「兵助」は越後から越前を抜けて、中国・四国方面に巡礼姿で逃亡!その間の出来事は、まめに日記に書き続けました。
逃亡資金はすぐに尽き、あとは喜謝に頼ったといいます。
強みは算盤と算術の知識があったこと。郡内という商品経済に深く浸透された地域で育ったということもあり、これらの知識があったようです。
泊り先ではそれを教えて重宝がられたそうです。
長い逃亡生活は辛かったものの、あとからは諸国廻りの道楽に近くなってきました。
追手の心配は要らなくなり、お伊勢にも詣ったとあります。
木更津で寺子屋の師匠
そしていつのことか、上総の木更津に住みつきました。
犬目宿は幕領であるが、代官所が「兵助」の帰村を知っていたことは、娘たつの婿の名で提出された宗門人別帳に「永尋兵助」と記載されているので明らかです。
まとめ
ここにも、意外な徳川時代がありました。
磔刑(たっけい)を受け、逃亡した囚人を改めて処罰しようとはしなかった。
罪は罪でも、それは村民(公共)のためにおこした行動であるからして大目にみる。
こういった抜け穴が存在していたのが徳川時代だったようです。
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