【江戸時代の文化】広く庶民にも及んでいた旅行やエンタメ

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豊かで楽しい現生だった。と言ったのは、全国を旅してまわった橘 南谿の言葉です。

徳川社会が文化的に爛熟した社会であったことは誰の目にも明らかである。歌舞伎、人形浄瑠璃など演劇の隆盛、琴・三味線などを伴う音曲や踊り・生花・茶道など芸事の普及、人情本・黄表紙・読本など俗文学の発達、社寺参詣・名所見物など旅の盛行。飲食店と食道楽の出現、固いところで言えば、反朱子の日本儒学・国学・経世論・蘭学の勃興、そしてそれらすべての基礎として、教育の普及と交通の発達。

引用元:小さきものの近代 渡辺京二著

肝心なことは、そのような文化的享楽が、広く底辺の大衆にまで及んでいたことである。

本記事は小さきものの近代(著 渡辺京二)』から抜粋して構成したものです。本記事を読むことで、江戸時代の庶民が余暇を楽しみ、豊かに暮らしていたことを知ることができます。

俳句をたしなむ

美濃国の関所を通ったときに、関守から「ここの関は一句作らずしては通し申さず」と言われ、やむを得ず作ったというエピソードを持つのは、日向国佐土原の野田泉光院という修験者です。

日本九峯修行日記

野田泉光院は、佐土原藩真言宗安宮寺八代の住職、宝暦5年(1755)長泉院成房を父として佐土原に生まれ、56歳のとき諸国の当山派修験見聞役として九州・山陰・北陸・中部・関東・奥羽・東海・近畿と廻り、そのときに書き綴った日記が「日本九峯修行日記」として刊行されたことで、一躍有名になりました。

無銭旅行

美濃国の関守が、「ここの関は一句作らずしては通し申さず」と言った背景には、もちろん、俳句熱が村々に及んでいたという理由があってのことですが、この野田泉光院という人が書いた日記には、当時の日本国内の風俗や庶民の生活がよく分かる、貴重な記録があります。

例えば泉光院と平四郎は旅籠などには殆ど泊っておらず行く先々で泊めてくれる家を探す。つまり無銭旅行である。素性の知れない旅人を泊めるということは現在では考えられないが、当時旅人を泊めるのは普通であったとみえ泉光院らが野宿した記録はない。
 出立から7日目、日向国飫肥藩(宮崎県)宮浦で雨に降り込まれ栄吉という家に一夜の宿を依頼、栄吉は出来合いの飯といって食事を出してくれた。旅人に食事を出すということは殆どないことである。雨天のため2晩泊まり翌朝茶代を出すが一銭も受け取らない。2晩も厄介になったので説得し謝礼の包みを渡している。さらに栄吉は近くの川も無銭で渡してくれている。宮浦の前日、内海に泊ったときも「日本廻国行者なれば」と一銭も受け取らず返されている。室津(山口県上関町)でも「廻国行者なればとて米代計り取り木賃は一銭も取らず。是も仏法の有りがたさと感ず」と。

引用元:みやざき風土記

現在の宮崎市佐土原町に、野田泉光院の墓があります。

「ふるさと納税」制度を使い、このような街を応援できたらいいですよね。

歌舞伎

かぶき者

歌舞伎はもともと「傾く(かぶく)」から出た言葉であり、社会的規範から逸脱して強烈に自己を顕示する「かぶき者」を起源としています。

市川海老蔵(二代目団十郎)は、寛保二年(一七四二年)、大坂に下って佐渡島座で演じた。演目は「外郎売(ういろううり」。大坂人の江戸への反感もあって半畳が飛ぶ。「外郎売」の言い立てのせりふを、海老蔵が語る前に客席から全部述べ立てる者さえ現れた。彼はその客が言い終わるまで舞台に手をついて聴いていた。そして、半畳を沢山下されありがたく存じます、お慰みにと前置きして、「外郎売」の早口ぜりふを後ろの方から逆に全部唱えあげた。客席は水を打ったように静まり返ったという。

渡辺保『江戸演劇史』上巻

このように、脚本自体ではなく、それを演ずる役者の形姿・演技が見どころであったため、俳優の比重が大きく名優が輩出した。また、名優がいれば、見巧者がいて、その間の緊張感が芝居見物の魅力でもあった、と。

歌舞伎見物は一日がかりの大層なもので、俳人内藤鳴雪は、六歳のとき初めて浅草猿若町の河原崎座で芝居を観ましたが、十一歳のとき家族連れで松山へ帰るまで、内藤家の江戸滞在十一年間、芝居見物はこの一度だけでした。

東京・銀座「歌舞伎座」のお楽しみのひとつである「黒昆布巻き押し鮨」、一度は現地で食べてみたいものですね。

河原崎座は、現在の東京都港区芝にありました。

まことちゃん
まことちゃん

当時から気安く観られるものではなかったようです。

緞帳(どんちょう)芝居

芝居見物の入場料は高価で、下層の庶民が気安く観られるものではありませんでしたが、江戸には方々に子芝居があって、これは一般庶民がいつでも観れました。

緞帳(どんちょう)とは、引幕を許されず、垂幕を用いたことに由来します。

まとめ

このように、徳川社会は文化的享楽が、一部の特権的上流社会に限られるのではなく、広く底辺の大衆にまで及んでいたのです。

お伊勢参りもその代表的な例で、参拝者は講を作って旅費を積み立て、集団で物々しく出で立ち、到着すれば所縁の恩師の家に泊まりました。

このお伊勢参りが、何らかの機縁で何百万という集団参詣に膨れ上がるのが「おかげ参り」です。

人びとは、神社仏閣巡りにかこつけて旅をしました。もちろん、京や江戸も見物しました。

十九世紀になると女性だけのグループで、博多から江戸まで巡り遊ぶケースも見られたといいます。

こんなニッポンがジェンダー後進国らしいですよ??

まことちゃん
まことちゃん

最後まで読んで頂き、ありがとうございます!

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