法学者である大木雅夫は、「日本人の法観念」の中で、このように言います。
これだけの歴史的事実に微するならば、百姓にせよ町人にせよ、江戸時代の民衆が強烈な権利意識をもっていたことは、とうてい否定できないであろう」
引用元:日本人の法観念 大木雅夫著
学校で習った江戸時代とはかなり印象が違いますよね。🤔
花押
「花押」とは?
花押は、もともと個人が使用するもので、署名の代わりに使用される記号・符号のことです。
享保17年、近江国の今堀村が他村と取り交わしたときの協定書で、各村の名の下に「花押」が添えられている事実について、歴史学者の水本邦彦氏が指摘しています。
つまり、村が法的に独立した人格であった証拠である、と。
だから農民は、裸の個人として幕府や藩の公権力と対峙することはなく、必ず村という集団の一員として対応したのだ。
幕府や藩に対して農民がものを言えたのは、村の法的な独立人格性によるものだ、と。
徳川時代は、村々によって、いろんな祈願が広く行われた時代である。
社会の仕組みは現代並み(それ以上かも?)
近江国今堀村は、現在の滋賀県東近江市今堀町です。
この辺りは、京や若狭、伊勢に通ずる街道の要にあたり、商人の中心地でした。
そういう地理的背景もあって、今堀日吉神社に残る「今堀日吉神社文書」には、座商人の実態を解明する商業関係文書や、惣村形成に関する文書が他に類例を見ないほど豊富に存在するとあります。
文政六年千七ヶ村国訴
代議制の萌芽
文政6年、畿内農民によって大坂奉行に訴え出た「国訴」は、農民が生産した綿花を自由に販売させて欲しいというものでした。訴訟の相手は大坂肥料商!
そのやり方が特筆もので、まず、郡中で集会して代表を選び、次に各郡の代表が大坂に集まって代表を選ぶ、というもの。
つまり、そこには代議制の萌芽(ほうが)がすでに見られる。
この訴訟に対する大坂奉行所の対応が、また特筆ものなのです。
「訴願が百ヵ村レベルでは総意ではない」と斥け、数百の数になれば受け付ける、と。
さらに、その場合においても、畿内農民の要求は、地域エゴイズムを含むので、他の地域の利害と見合わせて裁定を下したのです。
幕府は様々な地域利害の調整という公的機能を担っていました。
「図説 尼崎の歴史」にも、「文政6年の大国訴」として記録されており、このような記載があります。
この国訴が画期的であったのは、はじめて参画する村数が千を越えたことであり、摂河の約70%の村々が参画したことになります。そして、明和9年に認められた三所実綿問屋を、廃止に追い込むという大きな成果を得ました。
三所実綿問屋は、西日本諸国や畿内・近国から大坂に入る綿取引に関わる問屋でしたが、株仲間公認後、幕府に運上〔うんじょう〕銀を上納していることを振りかざし、摂河村々が他国へ綿を直接売れないようにいろいろと画策してきました。市中だけで認められた権限を拡大し、摂河村々の綿流通も掌中に収めようとしたのです。
そこで摂河の村々は国訴に踏み切りました。最初、786か村から始まったこの国訴は、その後221か村が加わり、ついに1,007か村という大規模な運動となりました。その結果、幕府が公認した株仲間を廃止させるという、画期的な成果を獲得したのです。
引用元:図説 尼崎の歴史(文政6年の大国訴)
旧町名継承碑
三所実綿問屋は、京橋一丁目で綿の市場が開かれたのが始まりです。
その場所は、「旧町名継承碑」という碑があることで、現代でも確認することができます。
現在の大阪市中央区大手前1丁目です。
大阪市の旧町名継承碑設置は素晴らしいですね~😍
日頃、街なかに買い物に行くだけの風景も、歴史という物語があれば違って見えたりします。😌
訴訟のための公事宿
徳川時代は、祈願だけではなく、控訴も頻繁に役所へ持ち出されたと言います。
その際に必要になる「文書作成の指導」や、「奉行所への取り次ぎ」のために、江戸には「公事宿(くじやど)」、大坂では「御宿(ごうしゅく)」が繁盛し、二百軒もあったとのこと。
まとめ
徳川時代は、農民をはじめとした民衆が、権利意識を持って生きていたことがよくわかりました。
1853年盛岡藩領で起きた一揆において、百姓達が役人に言った言葉でもよくわかります。
「汝等百姓杯と軽しむるは心得達ひなり。天下の諸民皆百姓なり。其命を養ふ故に農民ばかりを百姓と云ふなり。汝等も百姓に養はるるなり。此道理を知らずして百姓杯所有といと罵るは不届者なり」
幕末には、二百七十八の藩校が設立されていました。
つまり、徳川時代は、近代的国民国家に必要な一定の知的レベルを持った官僚群たちをすでに育成・用意していたのだ。と筆者は言います。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます!
以上