【西南戦争とは?】最後の内戦の戦死者数は薩軍6784人、政府軍6843人

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夏目漱石は「現代日本の開花」の中で、維新後のことを「外発的で内発的でない」と述べました。

すなわち漱石は、維新以来の変化は、望んでそうなったのではなくて、そうせねば生存できなかったので、そうなったまでだと言っているのだ。

引用元:小さきものの近代 渡辺京二著

現代の明治維新に対するイメージと、だいぶ違うと思いませんか?

本記事は小さきものの近代(著 渡辺京二)』から抜粋して構成したものです。本記事を読むことで、西南戦争のことがわかります。ではなく、謎が深まります。💦

夏目漱石

漱石の「日本の開花は、外発的で内発的でない」という悲しみにみちた講演につながっていった背景は、維新改革を「鼻の高いもの」すなわち西欧列強に対応するために採らねばならなかった、緊急避難と捉えたからというものでした。

漱石は、その変革の中で、「よりよき個人と社会の在り方」を求めるような動機を何ら認めることができなかった。と述べています。

したがって、「よりよき個人と社会の在り方」とは、何であるのか?というテーマについて、数々の小説を書いて追及していくことになった、と筆者は言います。

夏目漱石

そのことは、漱石の「朝日新聞」入社の際に尽力した「池辺三山」も同じ考えでした。

本編では、「池辺三山」の父である「池辺吉十郎」が、西郷の反乱に与して戦った「西南の役」を辿ります。

池辺三山

池辺三山は、明治期の日本のジャーナリストで、陸羯南徳富蘇峰とともに明治の三大記者とも称された人です。

大阪朝日新聞東京朝日新聞の主筆を歴任し、朝日新聞隆盛の礎を築いたひとりです。公明正大で高い識見の言論は、政治や思想、文芸など多方面に影響を与えたと言われています。

また、東京朝日新聞時代の部下だった石川啄木には、「大いなる彼の身体が/憎かりき/その前にゆきて物を言ふ時」(『一握の砂』)と歌に詠まれています。

池辺三山

池辺三山の父、池辺吉十郎は、熊本藩士として秀でた武人であり、明治10年、熊本士族隊を率いて西郷隆盛軍に参加しますが、敗戦時に処刑されるという非運に見舞われた人です。

西南の役

熊本隊出陣之所

熊本隊は、熊本の守旧派士族であった学校党を中心に結成されました。

当初は薩軍への参加をめぐって粉糾していましたが、明治10年2月21日池辺吉十郎が単独で川尻にあった薩軍に投じたのを契機に、『禁闕(きんけつ)守護(朝廷守護)』の名目でまとまり、22日に健軍神社で挙兵。

隊長・池辺吉十郎、副隊長・松浦新吉郎、参謀・佐々友房をを幹部に、隊員は十五小隊(後に十九小隊)に編制されていました。その参戦の目的は、『西郷の勝利を予測し、熊本での発言を増し、民権論を抑えて、欧米の横暴を排する』というものでした。

引用元:肥後国 くまもとの歴史

熊本隊の結成式が行われた健軍神社は、熊本市東区健軍本町にあります。

健軍神社の前に建っているのが、西南の役の熊本隊の出陣の碑

熊本隊出陣の碑入口

薩軍の熊本城総攻撃に1400名が出陣!

まことちゃん
まことちゃん

郷土の城に攻め込む気持ちは、現代からは想像できないところですね、、

以下は西郷と池辺吉十郎の関係性がよくわかるエピソードです。

熊本隊は県内の保守主流派である旧藩士(学校党)が主であった。諸隊最大の部隊で、総帥の池辺吉十郎は肥後西郷といわれ、誠実で度量があり士を愛した。

西郷軍はこのような士族たちを取込みながら鹿児島を飛出し、一目散に熊本へ押寄せたのである。

引用元:西南戦争と熊本隊、池辺吉十郎父子(熊本県)

漱石も、池辺吉十郎の長男である池辺三山に初めて会ったとき、「西郷隆盛というのは、かくの如き人ではなかったかと感じた」と言っています。

熊本城攻防戦(段山の戦い)

熊本市のランドマークといえば、なんといっても熊本城

この場所で、ニッポン人同士が戦い、しかも、決起した熊本隊1,400人は地元の人々です。😔

もっとも激しい戦闘が繰り広げられたのが、「段山の戦い」です。

薩軍の背面軍は鎮台が弱点とした突出部・藤崎台を攻撃します。

熊本城攻防戦ではこの突出部とその目の前にあった段山(だにやま)を巡る攻防が一番の激戦となった(段山の戦い)。

引用元:熊本城×西南戦争2(熊本城攻防戦:段山の戦い)

段山の住宅地の中に、段山​​古戦場の跡「戦死者慰霊塔」はあります。

段山での二日間の戦闘による死傷者数、薩軍兵死者73名、官軍兵死傷者221名

当時の段山は、独立した丘があり掘割を備えていましたが、現在は完全に削り取られて住宅地と化しています。写真は、熊本市電の段山町駅(昭和初期頃)

段山町から4駅先にある「上熊本駅」は、夏目漱石が第五高等学校の英語教師に就任した際、下車した駅として有名です

熊本城、戦死者慰霊塔ともに、2016年の熊本地震では大きな被害を受けました。現在はかなり復旧してきてはいますが、完全復旧までは、まだまだ長い年月が必要です。

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まことちゃん
まことちゃん

特典付きもありますよ

田原坂の戦い

西南の役最大の激戦地と言われる田原坂

慰霊碑が建てられた当初は、刻まれた戦没者が、今より5千名程少なかったようですが、西南役120周年の時に見直されて、現在では両軍合わせて1万3,082名の名が刻まれています。

田原坂には、蓮田善明先生文学碑」という碑もあります。三島由紀夫と縁深かった国文学者ですが、興味ある方は、こちら↓の記事をご覧ください。

現在の熊本市北区植木町に田原坂はあります。

もっと深掘りしたい方は、玉東町教育委員会のサイトがお勧めです。

まとめ

西南の役での戦死者数は薩軍6784人、政府軍6843人で、そのうち約4分の1が田原坂での戦いによるものです。

「欧米の横暴を排するため」という薩軍側の大義は理解できても、どのようにして、ニッポン人同士が戦わなければならなくなったのか?

まことちゃん
まことちゃん

釈然としませんねぇ~

2021年10月、戦場となった熊本城の西南戦争直後の土層から「米国の南北戦争軍用品」が出土したことがニュースになったことは記憶に新しいところです。

明治維新とは何だったのか? 背後に大きな力が働いていたと考えるのが自然なのだと思います。

まことちゃん
まことちゃん

最後まで読んで頂き、ありがとうございます!

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