今回は、井上毅という熊本を代表する偉人の話です。
井上毅という人は、義務教育で習う日本史には、ほぼ登場することはありません。
地元熊本でも、横井小楠ほどの知名度はありません。それぐらい「忘れられた」ひとなのです。
何故なのか?
その理由は、先の大戦でニッポンが敗戦したからに他なりません。
それでは、その理由について、詳しくみていきましょう。
はじめに
本記事は、教育勅語の真実(伊藤哲夫著)から引用して、できるだけ解りやすく、まとめたものになります。
世界が感嘆した日本人の国民性
平成23年3月11日、東日本の太平洋沿岸を未曾有の地震と津波が襲いました。(中略)
震災の翌朝、私が訪れた新宿駅では、帰宅が困難になった方々が階段に座って電車が動き出すのを待っていました。しかし、誰が呼びかけた結果なのかはよくわかりませんが、座る場所もないくらい混雑している中でも、中央の通路だけは「通る人がいるから」と空けてあったのです。
計画停電が実施された時には、電車の本数が削減されたこともあり、どの駅も乗客が入りきれないような大混雑となりました。しかし、この時も一切混乱はありませんでした。人々は文句をいうこともなく、ただひたすら駅員の指示に従い、整然と行列をつくって、電車の来るのを静かに待ちました。
それを見たあるドイツ人が、「日本国民はアーミーか」と叫んだそうです。軍隊でしか考えられないような規律正しさを、日本国民は示したのです。(中略)
こうした状況を、アメリカのニュース専門チャンネルCNNテレビは「住民たちは冷静で、自助努力と他者との調和を保ちながら礼儀を守っている」と報じ、またハリケーン被害に遭ったニューオリンズのケースと比較しながら、商店などの略奪行為について、「そんな動きはショックを受けるほど皆無だ」と仙台からリポートしています。(中略)
それだけではありません。中国国内では、避難所で十分な食料もない当初は、被災者が順香を守り、列をつくって少ない食物を平等に分配し、しかも全員が感謝の意を表しているニュース映像に、「われわれ中国人は、モラル、道徳心の面ではまだまだ日本に遠く及ばない。被災した日本人に学ばねばならない」との声が期せずして挙がったといいます。
日本人の心のDNAとなっている「教育勅語」
私は大東亜戦争終結後、日本人は拠るべき心の支えを失い、「このままでは、日本は絶望的ではないか」という暗い気持ちになることもしばしばありました。
しかし、今回の大災は、その魔れたと思っていた道徳心や倫理観が、まだまだ日本人の心の中にDNAとして立派に生きていることを私に実感させてくれました。それは、日本の美しい自然や風土の中で培われた先天的資質、という面もあったかもしれません。しかし、やはり大部分は教育の結果だろうと思うのです。(中略)
それを培ったのは、戦前の「修身」教育であり、「修身」の骨格をつくった「教育勅語」だったと思います。こうした心の教育があって初めて、相手への思いやりや礼儀正しさ、秩序を守る心などが育まれたのではなかったのでしょうか。
井上毅という人を語る上で、「教育勅語」は外せません。
文部科学省のサイトには、教育勅語について、以下のように書かれています。
教育勅語は、総理大臣山県有朋と芳川文相の責任のもとに起草が進められた。最初は徳育に関する箴言を編纂する方針であったが、やがて勅語の形をとることとなった。起草について、はじめ中村正直に草案を委託したようであるが、その後当時法制局長官であった井上毅の起草した原案を中心として、当時枢密顧問官であった元田永孚が協力し、幾度か修正を重ねて最終案文が成立したものであるとされている。
引用元:文部科学省 明治憲法と教育勅語
元田永孚という人も熊本藩士ですね
なぜ「教育勅語」が求められたのか
近代化の道を歩み始めた時代
明治維新は、日本が世界に誇ることができる画期的な大変革だと考えられています。
一方で、文明開化一辺倒の路線の修正が行われながら、明治の日本が作られていったということも知る必要があります。
混迷する明治日本の精神文化・道徳
当時、多くの西洋視察団や留学生が欧米各国に派遣されていましたが、西洋文明の迫力に圧倒されて、古来の日本の国柄に対して不信を公言する者が現れ始めます。
「日本が遅れているのは、世界に通用しない日本語にある。日本語をやめるべきだ」などと主張する人間も少なからずいたようです。
こうして、西洋に魂を奪われる若者は年々増加し、明治10年を過ぎる頃には無視できない存在になっていきました。皇室の存在や日本語、さらには日本の精神文化を軽視する者が続出して、国の体制を揺るがすまでになったのです。
いわゆる西洋かぶれだね。困ったもんだよ。今でも、はびこってるし(-_-;)
当時の教育界の状況
明治18年、欧米化を主張する急先鋒でもあった森有礼が文部大臣に就任、西洋化教育を積極的に推進していくことになります。
当時の教育界の状況ですが、石井省一郎という官僚が、学校を視察したときのエピソードとして、「そこには異様な風潮が漂っていた」と書いています。
そこには、アメリカ、ヨーロッパの豪傑を理想とするような風潮がみなぎっており、日本などは顧みないような考え方の兆しがあった。
つまり、欧米人を一等高く見て、日本人を劣等な国民とし、日本の歴史習慣を無視して欧米化せねば駄目だというような雰囲気になっていたと。
現代の「教育崩壊」も原因は同じじゃないの?
そんな中、中村正直という学者が、教育勅語の草案を作成することになったのです。
そこに法令上の問題はないか?という立場で、当時の法制局長官だった井上毅のチェックが入ります。
井上毅という人物
生い立ちとその思想
井上毅は、熊本藩の下級武士の家に三男として生まれました。
幼少期から「神童」の呼び声高く、四歳で親が読む「百人一首」を全部覚えてしまったそうです。
やがて私塾必由堂で学ぶことになるのですが、この必由堂のあった所は、今は熊本市の市立必由館高等学校の敷地内に、井上を偲ぶ立派な石碑が建っています。
その後、藩お抱えの儒者・木下犀潭の門に入り、朱子学を徹底的に学びます。ちなみに熊本の朱子学はいわゆる普通の朱子学と違い、そこに陽明学を加えた、かなり独特なものであったといわれています。
ここでも井上は抜群の成績を残し、今度は師・木下犀潭の推薦で、藩校・時習館の居寮生に抜擢され、この館独特といわれる朱子学の学問をさらに深めることになります。
毅さん、かなりのイケメンですね♡
重鎮・横井小楠の開国論を批判
井上毅が二十歳のときに挑んだ熊本儒学の大先輩・横井小楠との対話の中で、彼独特の思想の一端が垣間見ることができます。
横井はこの時56歳でした。日本を代表する開明派の儒学者です。今風にいえば、国際派でグローバリゼーション推進派、徹底した開国論を説く学者です。
現代にもいるよね。よくテレビに出てくる人たち(-_-;)
第一は「思」と「学」
古代には書物などはなかったはずで、ならば「学」とは当時、何であったか?
要は「思う」ということの重大性を説こうとしたわけで、単に「学ぶ」ということだけではダメで「思う」ことに価値があるというのです。つまり、「思う」ことで全てを自らに内部化するのが主体的思考に他ならない、というのが横井の立場でした。
「思う」ことの重要性はわかるものの、「思う」という行為はややもすれば主観的で独善に陥りやすい。自分勝手に思っているだけではダメで、それを防ぐためには、やはり「学ぶ」ことが必要ではないか。そこはどうなっているのだろうか?
結果は、横井を苛立たせただけにも見えます。しかしこの問題は、井上にとって非常に重要なテーマでした。彼は、何事においても主観主義を徹底的に排し、自分をひたすら客観視してとらえる禁欲的な態度を、生涯崩そうとしなかったからです。
第二は耶蘇(キリスト)教に対する評価
横井が理解のある見方をしたことに対して、井上は猛烈に反発しました。
耶蘇教はこの地上の国よりも天国を尊しとし、一向宗のように「君臣は七世の契、仏は万代の契」などと称して彼岸的な価値を志向する面がある。
井上は、彼らがそうであったように、将来「不慮の変」を起こしかねない危険な宗教なのではないか、というのです。
「夷人」との交通が始まるならば、この耶蘇教の流入は不可避であろう。
近頃は耶蘇教も宗教戦争などの痛切な体験により学んだことから、もはや我が国にそれを強制するなどということはあるまい。
強制はなくとも、一端流入すればその影響は止められないのが「自然の勢」というもので、完全に遮断するしかない。
第三は交易の問題
開国して世界貿易をやらなければならない。
日本は農を本とする国である。開国して海外のものが入ってくるようになると必然的に商が栄え、必要以上に商が大きくなると、日本は江戸・大阪のようになってしまうのではないか。
聞くところによると、江戸・大阪の町人は労苦をきらい「奇利末業」を追い、人々は贅沢に慣れ、民情は「游情」に流れているという。それに対して、この熊本は農を本とした国をつくっている上に、道徳の乱れもなく、よく治まっているではないか。
国を開けば、他国の悪習がどんどん入ってくる。キリスト教も入ってくる。その混乱をどうするのだ。と井上は問うのです。井上が理想としたのは、仁を理念にした「互譲」による秩序の形成でした。
西洋諸国がやっているのは植民地支配という非人道的支配である。そのようなものは「天理」ではない。
「万国一体、四海兄弟」💦
「万国一体、四海兄弟」は、西洋諸国が自らの便利を追求しようとしつつ、その自国の利害をおおう方便としていっているものに過ぎない。
井上は「鎖国」を守り得ない世界の「勢」(時代の現実)というものを認識していなかったわけではありません。「兵政を革し、水軍を設け、器械を修むるの事」という現実策にも言及してはいます。
「日本」を一途に思う
井上のその確信の強さは、子供の頃から「四書五経」を徹底的に学び、朱子学にも通じてそれを血肉とした結果、井上が獲得した価値観であり、アイデンティティでもあります。
対して、横井の言い分は、自らのアイデンティティを放棄し、熊本藩のアイデンティティを否定し、日本国のアイデンティティをも否定する納得しがたき説である。
井上はそこを徹底的に疑問としたのです。
さらに井上は言います。
人類が皆兄弟だったら、何で植民地が生まれるのか?
「鎖国、鎖国とばかりいっていると、英国、アメリカなどの四国連合艦隊に砲撃された長州のような目に遭うぞ」
四海皆兄弟で、西洋が本当の文明の上にあるなら、何で彼らは長州をあんな目に遭わせるのか。「万国」を「一体」とみるほどの国であるのなら、開国を拒否する長州をなぜ「敵」とし「滅亡の禍」に陥れるのか。それが「天理」なのか。
本当の文明国ならそんなことは絶対にしないはずだ!
これは、今日のグローバリゼーションを巡る議論にも通じるものです。
鎖国がすでに成り立たないものであるのは当然である。かといって、国をある意味で閉ざすことを忘れたら、国の本質は失われてしまうのではないか、と井上はいうからです。
井上の鎖国論は、現実の「時局対応論」としては当然限界がありました。というより、井上自身がそうした世界の「勢」を一方では認めていたわけですから、鎖国論が現実に通用しないことは当然の前提でした。
問題はそうした開国不可避の状況の中で、この国の何をどう守っていくか、ということだったのです。
私はこの井上に大変な共感を覚えずにはいられません。とはいえ、井上の主張が横井への反発レベルで終わっていたなら、後世、彼は単なる鎖国論者であり続け、守旧論者で終わっていたはずでしょう。
ところが彼はそうはなりませんでした。
いすれにしても、この反グローバリズム論の是非はともかく、私には井上が幼いうちから持ち続けた、日本というものに対するこの一途ともいえる信念やこだわりは、高く評価すべきものだと思うのです。
実際、井上はこの根本となる信念を曲げることなく、終生貫いていきます。
井上毅の主張は、現代人への警鐘でもあると思います
その後、欧州留学にて司法制度を学びます。
「日本の司法制度、裁判制度は井上毅によってつくられた」という評がありますが、それは決して大げさなものではありません。
井上が他の留学生と違うところは、多くの留学生が陥った西洋崇拝もなければ、日本を一方的に卑下することも一切見られなかったことです。
誰よりも熱心に、かつ真剣に西洋を学んだにもかかわらず、いわゆる西洋かぶれ的な要素は、彼が残している文章を見ても一点もありません。
150年経った現代は、西洋かぶればっかりだよね。(-_-;) 特に知識人に多い。。
明治政府のグランド・デザイナーとして
大久保利通に見出されて大久保のブレーンとなり、大久保亡き後も、岩倉具視、伊藤博文のブレーンとして重要法制の立案、本職の刑法、刑事訴訟法、大審院という現在の最高裁判所にあたる司法制度の基本設計などを手掛けます。
まさに、明治政府の「グランド・デザイナー」とでもいうべき重要な役割を果たすことになっていきます。
教育勅語の真実
その誕生物語
先にも書きましたが、明治23年、中村正直という学者が、教育勅語の最初の文案を作成します。
そこに法令上の問題はないか?という立場で、当時の法制局長官だった井上毅のチェックが入るのですが、この内容に強い反発を示して、この文部省案を廃案にしてしまいます。
その大きな理由は、中村の案があまりにもキリスト教色の強いものだったからです。
これに当惑した山縣有朋は、「なぜだめなのか?では、どういう案にすればいいのかを具体的に示してくれ」と、井上に草案の起草を求めます。
井上は、山縣宛の手紙で、最近の社会の風教の乱れ・思想の乱れを指摘しながら、
この勅語は、これを是正する「最後の砦」である。
勅語は日本の教育の最後の切り札である。このカードを空のカードにしないためにも、政治家には一致団結して、率先してこれを守るという覚悟が求められる。
その覚悟はおありだろうか?
その言葉、現代にも相通じるものがあると思いますね。
ところで、この教育勅語には、同郷の大先輩で「明治天皇の師」ともいわれた元田永孚も深く関わっていることも忘れてはなりません。
明治から昭和にかけて積極的に発言した思想家であり、今でいうジャーナリストの先駆けでもあった徳富蘇峰は、この元田のことを、明治天皇のご人格をつくり上げた「最親最密の顧問」と評し、一点の私心もない見事な人物と評しています。
徳富蘇峰も熊本人ですね。
教育勅語が果たした役割
政治的には井上の対極にあった民権派の犬養毅が、井上のことを以下のように評しています。
「井上は口先だけの軽薄な人間ではない。起きてから寝るまで国家の将来を考えることを片時も忘れることのできなかった篤実な人物である」
日本人の精神的支柱となった「教育勅語」
教育勅語が、国民の間に確実に浸透し始めたことは、日露戦争後の海軍で起こった、実話でも垣間見ることができます。
当時、日本は、列強が競っていた潜水艇の開発に遅ればせながら参入し始めていました。ところが、ある日、潜水訓練中にその潜水艇が事故を起こし、佐久間艇長以下の乗組員全員を乗せたまま沈んでしまう、という事件が起こったのです。
全員の生存が絶望視されるなか、海軍は沈没した潜水艇を引きあげ、ハッチをあけました。こんな時、諸外国では、脱出しようとした乗組員が我先にとハッチに殺到し、周辺は修羅場になっていることが常態だとされていました。
しかし、この海水艇のハッチ開辺には一人の死者もいなかったのです。それどころか、全員が持ち場を離れることなく、生けるがごとくとそこで亡くなっていました。
これがニュースとなって伝わると、全国民がその事実に粛然となり、私を捨てて最後まで佳務をまっとうした帝国軍人の姿に感激するとともに、声をそろえてその素晴らしさを賛嘆することになったのです。
しかし、国民の感動はそれで終わることはありませんでした。その後に遺体のポケットから発見された佐久間艇長が残した素晴らしい遺書の内容が、さらに大きな感動を呼んだからです。
遺書は、「小官の不注意により陛下の艇を沈め、部下を死なせてしまい、誠に申し訳ない」とまずお詫びのことばで始まり、「されど艇員一同死に至るまで、皆良くその職分を守り、沈着に事を処せり」と、職務に殉じた部下の素晴らしさを記しています。
そして最後に「謹んで陛下に申し上げる。我が部下の遺族をして、窮することなからしめ給はんことを。我が念頭に懸かるもの、之あるのみ」と結んでいたのです。
艇内の明かりも消え、徐々に乏しくなっていく空気の中で、最後の最後まで部下のことを思い、残されることになる家族の救済を天皇に願っていたのです。
この佐久間艇長のエピソードは、後に修身の教材にもなりますが、海外の軍人たちにも知られるに及び、佐久間艇長と乗組員は世界の「軍人の鑑」として讃えられることにもなりました。
こうして、教育勅語は、国民の心の中にしっかりと根を下ろし、日本人の精神の骨格となっていったのです。
絶賛された日本の「教育勅語」
「教育勅語」が、本格的に海外に紹介されるようになるのは、勅語が発布されてから十五年後の明治三十八年、日露戦争下のことでした。
当時日本は、東郷平八郎率いる連合艦隊が世界最強といわれていたロシア・バルチック艦隊を破り、中国大陸でもロシア軍に勝利を重ねていました。「極東の小さな島国である日本が、大国ロシアを相手に戦況を有利に進めている」このニュースは世界中を駆けめぐり、世界の人々を驚嘆させました。
そうした中、日本政府は対日世論を親日的なものにするために、貴族院議員の末松謙澄をヨーロッパに、金子堅太郎をアメリカに派遣し、広報活動を展開することになります。
この時、二人は教育勅語の英訳をもっていき、それを説明して、「ここにロシアにも負けない日本人の精神が込められている」と各地で講演し、大変な感動を呼んだ、という記録が残っています。
そして、明治三十八年九月五日、アメリカ・ポーツマスで日露両国の講和会議が開かれ、日本が世界最強を自負していたロシアを屈伏させるや、日本に対する関心は世界中に爆発的に広がっていったのです。
なかでも英国は、日本発展の原動力を、教育勅語をもとにした道徳教育の力と捉え、講演者の派遣を日本政府に要請してきました。これにより、菊池大麓が直ちに「教育勅語」の英訳を行い、英国各地を巡回して、精力的に日本の道徳教育を紹介活動を展開していったといいます。
全英教員組合の機関誌は、「教育勅語と合致した教育精神を有する国民は、いかなる困難に直面しても進化上の出来事と済まされ、決して進歩の大道を逸脱することはない⋯⋯この愛国心が強く、勇敢無比な国民は、教育上の進化を続け、結果としてその偉大な勅語に雄弁に示された精神をもって、国民的伸展の歴程を重ねていくであろう」と論評しました。
また、教育専門月刊誌『エデュケーショナル・タイムズ』は、勅語の前段を引用して、「ここに威厳があって思慮深く、人心に感動を与えるような訴えかけの好例を見することができるであろう」と教育勅語を絶賛してやまなかったという記録が残っています。
現代日本人にとっての「教育勅語」
こうして、世界各国から称賛された教育勅語も、大東亜戦争敗戦後は一転、全面否定されることになります。それは当然のなりゆきでした。というのも、日本を占領した連合軍にとって、大東亜戦争であれほど強力に敵対してきた相手国の弱体化を図ることは、当たり前のことだったからです。
そこで彼らが見いだしたのが日本人の精神、いわゆる大和魂の支柱となっていた「教育勅語」でした。この教育勅語による日本の教育をたたき壊さない限り、日本という国を、ある意味で米国に対して「再び脅威となることのない安全な国」にすることはできない、と考えたのです。
つまり、日本弱体化の切り札として利用されたのが「教育勅語」なのです。
歴史から消されたということだね。
まとめ
教育勅語の現代語訳です。
私が思うには、わが祖・神武天皇をはじめとする歴代の天皇がこの国を建てられ、お治めになってこられたご偉業は宏大で、遼遠であり、そこでお示しになられたひたすら国民の幸せを願い祈られる徳は実に深く、厚いものでありました。それを受けて、国民は天皇に身をもって真心を尽くし、祖先と親を大切にし、国民すべてが皆、心を一つにしてこの国の比類なき美風をつくり上げてきました。これはわが国柄のすぐれて美しいところであり、教育が基づくべきところも、実にここにあると思います。
国民の皆さん、このような教育の原点を踏まえて、両親には孝養を尽くし、兄弟姉妹は仲良くし、夫婦は心を合わせて仲睦まじくし、友人とは信じ合える関係となり、さらに自己に対しては慎ましやかな態度と謙虚な心構えを維持し、多くの人々に対しては広い愛の心をもとうではありませんか。
また、学校では知識を学び、職場では仕事に関わる技術・技法を習得し、人格的にすぐれた人間となり、さらにそれに留まらず一歩進んで、公共の利益を増進し、社会のためになすべき務めを果たし、いつも国家秩序の根本である憲法と法律を遵守し、その上で国家危急の際には勇気を奮って公のために行動し、いつまでも永遠に継承されて行くべきこの日本国を守り、支えて行こうではありませんか。
このように実践することは、皆さんのような今ここに生きる忠実で善良な国民だけのためになされることではなく、皆さんの祖先が昔から守り伝えてきた日本人の美風をはっきりと世に表すことでもあります。
ここに示してきた事柄は、わが皇室の祖先が守り伝えてきたお訓しでもあり、われわれ皇室も国民もともどもに従い、守るべきものであります。これは今も変わるものでなく、また外国においても充分に通用可能なものであります。私は皆さんと一緒になってこの大切な人生の指針を常に心に抱いて守り、そこで実現された徳が全国民にあまねく行き渡り、それが一つになることを切に願います。
何か不都合な文言はありますか?
最後に、日本のルソーといわれた中江兆民の井上毅評です。
「今の日本の政治家中には思想する権力者が全くない。思想する政治家としては井上毅君ただ一人を見たが今はすでに亡い」
思想なき繁栄の現代こそ、この教育勅語が必要なのでは?
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
井上毅のことを、もっと深掘りされたい方は、こちら↓の書籍を読まれることをお勧めします。
【教育勅語の真実】著者:伊藤哲夫
【忘れられた天才 井上毅】著者:井上俊輔 発行日: 2019年11月25日
(出版社からの内容紹介)
明治創成そして、日本の基盤を作り上げた井上毅の全貌を明らかにする !
明治期における政府重要文書の多くをまとめ、憲法・皇室典範・教育勅語を起草。
国を護り抜く意思と戦略にその生涯をかけた。