熊本日日新聞で連載中の「小さきものの近代」の冒頭には、以下のように書かれています。
幕末から明治維新を経て、敗戦に至るまでの日本は、史上まれにみる激動の時代だったとされる。長期連載「小さきものの近代」は、江戸幕府の幕藩体制を解体し、近代国民国家が構築されていく中で、名もなき市井の人たちはどのように生きたのかを追い、明治維新や日本の近代化の意味を考える。
引用元:小さきものの近代 渡辺京二著
小さきものの近代
明治維新について、「人類の近代が経験した最大級の革命」とか、近代どころか「人類史上稀に見る大規模な社会変革」などと、日本近代史の知識人たちは言うが、明治維新は「革命」の名に値するのか?
という疑問符から、「小さきものの近代」は始まります。
維新変革の徹底性・急激性は、あくまで中央集権的近代的な国民国家(ネーション・ステート)を創出するためのものであり、その理由は、言うまでもなく、開国によって「万国対峙」の状況の中に引きずり出されたから、と著者は言います。
そのことは、「生麦事件」や「馬関戰争」等が起きた時の、この国の対応をみると明らかです。
生麦事件
当時、西洋外交団がいったいこの国の主権はどこにあるのか?幕府にか、朝廷にか、雄藩にかと首をかしげるような状態にありました。
例えば、生麦事件で幕府に責任を問うても、結局は薩摩にまで出かけて交渉せねばならず、結果的に薩英戦争が起きます。
生麦事件が起きたところは、現在の横浜市鶴見区生麦です。
京浜急行生麦駅から徒歩で7分ぐらいのところにあります。すぐ目の前には「キリンビール横浜工場」がありますね。😍
このような立派な碑が建っており、建立は、1883年(明治16年)12月とあります。
「生麦事件之碑」の碑文には、中村正直による「君此の海壖(かいぜん)に流血す 我邦の変進も亦其れを源とす」とあります。
この事件は、長州藩にも強い影響を与えます。
生麦事件発生地(無礼な異人を斬り捨てたという事件は、攘夷の世論が沸騰する当時、「壮挙」として受け止められた。尊皇攘夷の総元締的な存在だった長州では、薩摩に遅れてはならじと、高杉晋作らが品川御殿山に建設中のイギリス公使館を焼き討ちにするなど、攘夷運動がますます加熱することとなった)
引用元:幕末トラベラーズ
この事件をきっかけにして、攘夷運動が加熱していくことになったことがわかります。
歴史を伝えていくということは、自治体や関係者の方々の「たゆまぬ努力」によって支えられていることがよくわかりますね。感謝しかありません。🙏
馬関戰争
馬関海峡を通る外国船を長州が攻撃(馬関戰争)しても、幕府は賠償金を出すだけで、海峡安全通行の保障を与えることができず、結局は四国艦隊が馬関に出動せざるを得ない状態となり、ネーション・ステートの喰い合う国際社会に到底口出し出来る状況ではありませんでした。
- 文久3年(1863年)5月、長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加えた。約半月後の6月、報復としてアメリカ・フランス軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えた。しかし、長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行した。
- 元治元年(1864年)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていたイギリスは長州に対して懲戒的報復措置をとることを決定。フランス・オランダ・アメリカの三国に参加を呼びかけ、都合艦船17隻で連合艦隊を編成した。同艦隊は、8月5日から8月7日にかけて馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。
長州藩は、四国艦隊(イギリス、アメリカ、フランス、オランダ)による攻撃を受けて敗北するのですが、4か国は講和における条件として、莫大な賠償金はもちろんのこと、「彦島の租借」を持ち出してきます。
このとき、講和使節として全権を任せられていたのが、高杉晋作です。高杉は上海留学をしていたときに、上海の租借地(植民地化)の実態を見ており、どれだけ悲惨な目にあうかを知っていました。
したがって、高杉は、「彦島の租借」については、断固NOを貫いたのです。
彦島は、「壇ノ浦の戦い」があったところでも有名な島です。
このように、幕府主導にせよ、薩長主導にせよ、強力な中央集権国家を形成する以外、ペリー来航以後の局面に対応する途はなかったのです。
その中央集権国家の任務は、まず強力な近代的兵力を養うことであり、そのためには国富が必要である。したがって、富国強兵が維新変革の至上唯一の目的となったのは当然である、と。
維新革命とは
要するに、維新革命とは、日本が国際社会に再登場するための緊急避難的処置にすぎなかったのであり、それは、徳川社会が邪悪であるが故に、その改革のために起こったのではない。
また、16・7世紀生じた欧州とのファースト・コンタクトがもたらした危機を「鎖国」によって切り抜けたこの国が、否応なく強いられたセカンド・コンタクトを何とか乗り切るための緊急避難として、国家構造の変革を目指したものに他ならなかったのです。
つまり、ひとりひとりの小さきものの幸・不幸など、問題ではなかった、と。
まとめ
今回は、「生麦事件」の生麦と、「馬関戰争」の彦島を取り上げました。
歴史を探訪しながら旅することは楽しいものですが、事前情報として本記事を活用してもらえると幸いです。
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最後まで読んで頂き、ありがとうございます!